1.ドラマ「泣くな、はらちゃん」を観て

 

全10話だが、8話あたりからは、観ながらしばしば泣いていた。(又、ドラマを観て泣いていたのか…笑)

これは二次創作に限らず、何らかの創作を好んでしている人、及び創作物に入れ込むタイプの人、二次元萌えの人にとっては急所を突かれたような話だ。

一般の人だって勿論ウケるとは思うが、上記の人ほどは切実さはないかもしれない(苦笑)。

そして、自分が現実社会に多少でも適合していないのでは…と不安のある人だと余計に輪をかけて物語に引き込まれると思う。

かく言う私は、思いっきり引き込まれた口だ。

最近観たドラマでは一番感動したかも…。(DVDレンタルで観たけど、放送も2013年1月だったらしいので、そんな前じゃなかったんだ…)

 

物語の概要をちょっと書く。

 

主人公越前さんは自宅からさほど離れていないカマボコ工場で働いている。

見たところ、とても内向的で人付き合いは苦手なタイプのようだ。

その為か、自分に自信が持てず、周りの人たちとも打ち解けられない。

自分自身も周りの世界も「大きらい」状態だ。

その現状を良しとして受け入れているわけでもなさそうだ。

かといって、現状を変える意欲もない。

 

日々溜まりに溜まった不平不満を日記代わりにノートに描くマンガに吐露している。

越前さんは、オリジナルマンガを描いているわけではなく、大好きな矢東薫子先生の漫画の二次創作マンガをノートに描いているのだ。

 

そんな彼女のノートから出てきたのが、マンガの主人公にあたる人物「はらちゃん」だ。

ノートに激しい衝撃が加わると(放り投げられるとか、激しく振られるとか)中から出てこられるようなのだ。

マンガの世界の人々は自分を描いてくれた人を神様と呼ぶ、越前さんが彼らの今の神様なのだ。

 

越前さんのカマボコ工場には、工場長の玉田さん、営業の田中さん、正社員の同僚の清美さん、パートの責任者の百合子さん、パートのおばちゃんたち多数が一緒に働いている。

彼らは、マンガ世界からこちらの世界へ来てしまった何一つこの世界についての知識を持たない一見不審者に思える(笑)はらちゃんを、少しは訝しげに思いながらもすんなりと受け入れてしまうという、根っからの良い人たちだ。

そう、この物語には直接悪人は出てはこないのだ。

 

はらちゃんはマンガの人なので、無垢なまま疑う心を一切持たない純真な心の持ち主である。

そして幼児よりももっと真っ直ぐかもしれない気持ちでひたすら越前さんを慕う。

最初、はらちゃんを名乗るこの男を、越前さんは自分のノートを盗み見て、登場人物の名前をふざけて名乗っている輩と思い(まあ、当然の対応であろう…笑)、「ふざけないで!」と怒りを持って対応する。

しかし、何の駆け引きもなしに真っ直ぐに大好きの気持ちをぶつけてくるはらちゃんの並外れたひたむきさは、凍りついたように頑なに自分の殻に閉じこもった越前さんの心を徐々に融かしてゆく。

 

越前さんは、はらちゃんが言葉どおり、自分の二次創作マンガの中の住人なのだと理解できるようになった時点で、既に彼に対して半分恋に落ちたような状態になってしまっていた。

二人は、現実世界とマンガ世界という違う世界の者でありながら、はらちゃん言うところの「両想い」になる。

そしてそれなりに充実した楽しい時間を過ごしたりもする。

しかし、はらちゃんはともかく、越前さんは内気だが(苦笑)思慮分別も十分ある真っ当な人なので、これがこのまま続いていいはずはないということも分っているようで、楽しさと同時に非常に切ない気持ちではらちゃんと共にいるのだ。

 

この後、はらちゃん以外のマンガの住人全員もこちらの世界に出てきてしまい、いったんは皆でこちらの世界で暮らすことを選ぼうとする展開になるのだが、彼らはその純粋で無垢すぎる心ゆえに到底こちらで暮らすことが出来ないことを思い知らされる事件に巻き込まれる。

そして彼らは自ら自分たちの世界に戻ることを選択して帰っていく。

 

越前さんと工場の人々は、はらちゃんたちと出会って別れた後も、又、いつもと同じように日々を過ごす。

しかし、皆以前とは少し違う。

皆少しだけだが以前よりも前向きに、それぞれのあるべき姿で率直に自分と向き合って、暮らしている様子であった。

 

越前さんも相変わらず日記代わりに、はらちゃんたちのマンガをノートに描くが、その内容は以前のような救いようのない愚痴ではなく、もうちょっと前向きな愚痴になっているのだった。

 

こういった無垢な魂に触れて現実に倦み疲れた人が更生するという話はよくある。

これもそういったパターンの話なのだと思う。

ただ、その設定がキャラクター、物語舞台とも絶妙である。

地方の海辺の小さな街、喧騒とは程遠くて、それでいて鄙びすぎてはいない、登場人物も小市民で本当に平凡な人々だ。

そんな中にマンガの世界から人が実体化して出てくるという、童話もびっくりな設定。

ゆるい癒し系の世界観が、コメディタッチの作風と相まってやんわり、まったりと、この突拍子も無い物語を私の心にすんなりと受け入れさせてくれたのかもしれない。

 

きっと役者さんたちの演技も功を奏していたと思う。

マンガから出てきたはらちゃんは長瀬智也さんだ!(ものすごい熱演だったなぁ・笑)

越前さんの麻生久美子さんも出色の演技だった。

他の役者さんも皆素晴らしく上手かった。

おそらく脚本、演出ともに大変優れていたのだと思う。

とにかく、よくこの荒唐無稽ともいえる話を白けさせずに最後までグイグイ引き込んで観させてくれたと感嘆する。

 

2.キーパーソン、百合子さんのこと

 

越前さんの描く二次創作の元の漫画を描いていたプロの先生矢東薫子は実はパートの百合子さんであった。

百合子さんはある時突然スランプに陥り漫画が描けなくなって、都落ちするようにこの海辺の街に流れて来てひっそり暮らしていたようなのだ。

百合子さんの言う言葉はいつも真理を突くようなものが多い。

そしてそれは、どこか苦い思いが滲んだ真理だ。

 

「夢がかなったって、幸せとは限らないしね。」

 

「美しいんだよ。片思いは。」

「この世界のほとんどの思いは片思いなんだ。世界は、片思いで出来てるんだよ。」

 

「楽しいことってのはさあ、その分、切ないんだよね。楽しい分切ない。切ない分楽しい。」

 

「人は、ハッピーエンドの後も生き続けて行かなきゃならないから。大変なのは、ハッピーエンドの後なのにね。」

 

百合子さんは、実は、スランプの時に、越前さんと同じように、自分の描いた漫画の人物が現実に出てきて一緒に暮らしていたのだ。

彼女はそれが最初はとても楽しかったのだが、そのうち時間が経つにつれて、何だかどうしようもなく恐くなっていった。

神様と呼ばれて神様の責任を背負い込んで、その人物とずっと一緒にいることが恐くて怖くてたまらなくなった…。

あげく、漫画の中で登場人物たちを殺して、全てを無にしてしまう。

彼女はプロ漫画家として筆を折って、それまでの生活から逃げる形でこの街にたどり着いたのだった。

 

この百合子さんという人物の存在があったので、私などは、安心してドラマを観ていられたといってよいだろう。

彼女が越前さんと、はらちゃんの双方に対して、それぞれの相談を聞き助言している場面が幾度も出てくる。

上記の言葉はそういった場面で彼女が相手に、そして自分自身にも投げかけるように発せられるのだ。

こういう百合子さんがらみの場面がもし無かったら、物語の行く先についての不安が大き過ぎて、とても平静な気持ちで観ていられなかったかもしれない(笑)。

おそらく、越前さんと、はらちゃんの絡みだけでは話もスムーズには進まないだろう(笑)。

物語の導き役としてもこの人物は絶対必要だった。

 

百合子さんは越前さんとは違い、夢がかなって一度は日の当たる世界で成功した人間だ。

しかし、今は、挫折して世界の隅でひっそりと暮らしている。

百合子さんは、越前さんとは別の形だが、やはり世界を捨てて、自分から逃げているのだ。 

彼女は越前さんを通して、もう一度、自分が投げ出した漫画と対峙することになった。

そして、最初越前さんにアドバイスする立場だったのが、いつしか、はらちゃんと真摯に向き合おうとする越前さんの姿に今度は自分が大いに教えられるようになっていくのだった。

百合子さんは、ラスト、矢東薫子として、漫画家として復帰したようである。

 

ドラマのもう一人の主人公ともいうべき重要な役だった百合子さん、この百合子さんの人生再生の物語にも私は強く心を揺さぶられたのだった。

 

 

 3.はらちゃんの問いかけ

 

はらちゃんはマンガの世界だけしか知らないまま現実世界へ出てきたものだから、犬も知らなければ猫も亀も、自動車も海も空も、この世の多く全てが初めて知るものばかりだ。

はらちゃんが何でもかんでも見るたびに「あれは何ですか?」「それは何ですか?」と尋ねるのはそういうことだ。

 

そして、そのはらちゃんの問いは、恋とは?家族とは?結婚とは?死とは?などと根源的なものにまで及ぶので、私たちは正面きって、この問いを向けられた時にドキリとさせられる。

はらちゃんは当たり前だと流していた世界の全てのものが、当たり前ではなく、意味をもってそこにあるということを改めて思い出させてくれる。

 

はらちゃんと越前さんは互いに相手を大切に思い、正しく「両想い」になるが、互いを思うゆえに、それぞれの世界で別々に生きることを選ぶ。

それは違う世界で生きようとも二人は「両想い」だから大丈夫なのだと…。

 

百合子さんがはらちゃんに「越前さんが他の人を好きになってしまったら?はらちゃんよりもっと。」と尋ねる。

はらちゃんは「それで越前さんが幸せでしたら、私も幸せです。」と答えるのだった。

百合子さんは「この世界ではそれを、愛って呼ぶの。その気持ちを、誰かに持てることは、とっても幸せなんだよ。」と言う。

 

越前さんは、はらちゃんと別れた後、以前よりもずっと前向きに日々を送っているが、現実世界とはまだまだ「両想い」にはなれそうにないとはらちゃんのノートにつぶやく。

でも、私は世界に片想いしている、片想いは美しいんだとも言う。

 

越前さんは、そんな風に時々とても、はらちゃんに会いたくなる気持ちを必死に抑えて日々を過ごしているようである。

 

 

4.越前さんが踏みとどまったこと

 

越前さんは、矢東薫子先生の漫画のはらちゃんというキャラクターが好きだった。

だから、二次創作していたのだ。

そのはらちゃんが、現実世界に出てきて、越前さんに大好きです!越前さんをを幸せにする!越前さんと両想いになる!と言うのだ。

服装センスは(?)だが、イケメンである。

マンガの人なのに、見たところ、肉体的にも現実世界の人と寸分ちがわない様子である。

勿論、触れるし、抱擁、キスなんかもできちゃうのである!(衝撃じゃないですか!・笑)

 

越前さんは嬉しいが、大変戸惑っていた。

私が嫌いですか?とはらちゃんに聞かれて「嫌いなはずないじゃないですか!だって私が描いたんだもの、私好みにして」と言っていた。

越前さんとはらちゃんの「両想い」はすごく楽しくって、その分すごく切ない。

百合子さんが言っていたように「楽しい分切ない、切ない分楽しい」のである。

そして越前さんとはらちゃんのは切ない分量が大きい分、その「両想い」の姿は悲しくて美しいのだった。

 

これはピグマリオン・コンプレックスを思いださせる。

二次元の自分の創作物が実体化して目の前に現れて、自信のない自分を全肯定してくれて、慕ってくれるなんて…。

ものすごく甘美だけど、禁忌の香りがする。

おそらく手にしてはいけない禁断の果実だ。

百合子さんが、漫画の人としばらく一緒に暮らしたらとても楽しかったけど、とても恐くなったというのが私にもなんだか分る気がする。

きっと、越前さんもはらちゃんが大好きだけどそれを感じていたと思う。

 

はらちゃんと、越前さんが真に対等な存在であったなら、そこに恋愛が存在するかもしれないが、きっと、あの物語のあの時点ではそうではないだろう。

越前さんが、はらちゃんと違う世界で生きることを選んだことは悲しかったが、半面、視聴者もほっとしたと思う。

越前さんが、現実世界と「両想い」になれるぐらい、自己を確立できたらはらちゃんとどうなるかな…?

でも、そうなったらもうはらちゃんは現れなくなるかもしれない気もするんだが…。

 

実はこの物語のラストのラストは、急な雨に降られた越前さんが帰り道で、転んで倒れてびしょ濡れになった時、鞄とともに放り出されたノートから、はらちゃんが姿を現したのだった。

はらちゃんは傘をさし掛けて越前さんを雨から守っていた。

ずっと我慢していたけど、やっぱり会いたかったはらちゃんとやっと再会できてとても嬉しそうな越前さんの姿といつもの元気なはらちゃんの姿がそこにあった。

 

二人の実に幸せそうな姿に、良かったねと心が温かくなるラストだが、…なんだか…大丈夫なのか?と少し心配な気もする私であった。(笑)

 

 

5.多少ネガティブでもいいじゃない

 

たまに、ドラマを観終わった後、自分が、ドラマのポジティブさについていけなかったことで心が沈むことがある。

その点、これはそれがなかったドラマであった。

 

はらちゃんに出会って、それまでとは変わった越前さんであるが、その変化はさほど大きくはない。

例えば、昔、諦めていた漫画家になることを志すとか、そういうことは全然なく、今までどおりカマボコ工場で今までよりも前向きに働いている程度である。

他の人々も、皆、以前とは変わっているが、そんな大きな変化というわけではなく、それぞれの場所でそれぞれちょっと前向きにやっているという程度なのだ。

しかし、この少しだけ変わったというのが、私はとてもいいなぁと思うのだった。

 

越前さんが、自分にも周りにもどうしようもない苛立ちや怒りを感じていたのは、きっと自分はこんなではない!こんなはずではないという気持ちがあったからだ。

それはもしかしたら向上心なのかもしれないが、きっと向上心に振りまわされる前に必要な段階があるのだ。

越前さんにとって必要だったのは、今そこにいる自分のそのままの姿を、越前さんが受け入れることだ。

今の自分を認めることで越前さんは自分自身になる。

そして初めて越前さんは新しく前に進めるようになるのだ。

 

それは越前さんだけでなく、他の登場人物たちだってそうだった。

みんな自分に迷っていたし、自信なんかなかったのだ。

そして、はらちゃんたちマンガの人たちと出会うことによって、彼らは自分の今の姿が少しは見えたし、そんな自分のことをまんざらでもないと思えるようになった。

 

ただし、変わるきっかけをもらったけど、そんなに劇的に人は変われない。

そしてこのドラマは、まあまあ、そうそう変われなくってもいいじゃない、ほんのちょっとだけでも変われたら儲けものですよ…、ぐらいのメッセージをくれるのだ。

きっと、無理するな、あなたのペースであなたらしく世界と「両想い」になれる日を目指してね、ということだろう。

「両想い」になれなくても、「片想い」も又それはそれで美しいのだから、それでもいいかもね…ぐらいのメッセージ。

 

きっと越前さんがはらちゃんに又会えたのもそれかな?

越前さん、会いたいときは、はらちゃんに会えばいい、越前さんのでペースで越前さんは自分自身になればいいということかもしれない。

 

きっと越前さんが、自分自身をもっと好きになって、鳥が鳥であるように、魚が魚であるように、今の自分が今の自分そのままであることを受け入れることが出来たときに世界と越前さんは「両想い」に成るのだろう。

 

 

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