25.完結編におけるデスラー総統のこと

 

総統のガルマンがミラス帝国は物語の冒頭、異次元から現れた赤色銀河と銀河系の交差という宇宙の大変動の影響を受け壊滅状態に陥っていた。
古代たちヤマト一同が様子を見に行った時、誰も助かった人がいないような口振りであったので、全くもって悲惨な話である。


総統は終盤に出てきた時に、たまたま星間国境の巡視に出ていたので助かったと言っていたが(不幸中の幸いというか)、せっかく作った大帝国が自然の脅威のせいとはいえ、あんなことになるとは…、なんと言ってよいやら、お気の毒である。
しかし、これもヤマトを沈ませる為の布石だよね。
ガルマンガミラスが健在なら、ヤマトの危機に総統がもっと早い時点で協力を申し込んだりするだろうとのツッコミを防ぐ為に、帝国を潰しちゃえという制作サイドの強引設定であろうと思われる。
総統、主要人物でもやっぱり脇は辛いねぇ…、とひたすら同情する私であった。(苦笑)

 

しかし、別の視点から考えてみると、私は以前ヤマト一作目の感想にも書いたが、総統は地球に対しての行い等(あの侵略行為)からしても、非常に業の深い人であった。
これまでもガミラス本星を失ったり、愛する人を失ったり、自分が一度死んじゃったりと、いろいろ因果応報というべき酷い目にも遭っている。
反面、短期間に以前にもまして強大な国家を再建してトップに立ち続けているなど、栄光に満ちた面も享受している。


おそらく総統の業に応する報いはまだ足らなかったのかもしれない。

天は総統に再び苦難を与える為、もう一度最初からの振り出しに戻したのかも、という気もする。
しかし、さすがにもうこの位で振り出しに戻されるのも終わりであろう。
地球に対しての罪滅ぼしともいえる協力もまあまあしてくれてるし、そろそろ急転直下の振れ幅の大きな激動人生から、もう少しは安定するのではと思うけど…(そうあってほしいものだ)。

 

制作側も、冒頭のあの酷いガルマンガミラス星の扱いのお詫びのつもりか、終盤の総統の出番にはめいいっぱい色を付けてくれていた。
白バラを片手にヤマトの絶体絶命のピンチに颯爽と登場である。
テーマ曲「デスラー襲撃」と共に!
これ以上カッコイイ登場の仕方があるだろうか?!
自分の星が又々壊滅してしまったのに、全然憔悴してないし、余裕かまして助けに来て「間に合って良かった。あの邪魔者は私が引き受けよう!」である!
どうよ、どんなよこれ?!(笑)
いや、精一杯強がってカッコつけてたのかな…?、男の矜恃ってやつで、でもその辺がカッコいいんですが。

おまけに総統の伝家の宝刀ともいうべきデスラー砲(ハイパーの方?)でディンギル側は瞬時 殲滅である。
今までのシリーズ中で一番カッコ良かったかもしれない。


勿論私は総統ファンであるので喜ばしいことこの上ないのだが、こんなにあっけなくディンギル側が消えてしまうと、今までのヤマトと敵方の戦闘あれこれについて興醒めしてしまうように思うのは私だけか?
ネットで見た情報では、総統とディンギルはもっと戦闘していたらしいが、時間の関係でカットされてしまったとあった。
そうか、それがあればこんなふうには思わなかったかも(苦笑)。

 

総統はこの後、ヤマトがアクエリアスの海に沈んでゆくのを古代たちから随分離れた空域で見守っていた。
総統は又、宇宙空間にメットも付けずにいつもの軍服姿でマントを翻して出てきて甲板に立っていた。
身体なんともないの?、総統、いつものこととはいえ、最後までいろいろスゴイ人!(笑)。


そして結構私が驚いたのは、ヤマトの最期を見守る総統の目にはなんと涙が!
総統はこれまで普通の人なら立ち直れないであろう心が折れそうな経験の数々に見舞われてきたが、一度も涙を見せたことがなかった。
そんな総統が涙を!

古代や乗組員も涙でヤマトを見送っていたが、総統も彼らと同様、いや、もしかしたら皆以上にヤマトには思い入れがあったと思う。
総統の人生は途中からヤマトに翻弄されっぱなしだったといってもいい。

ヤマトなくして今の総統はいないだろうし、総統にとっては、かつての宿敵であり、執着の対象であり、そして複雑な想いで愛していた艦であったろう。
総統はきっとヤマトに対して、最大限の敬意と哀悼を以て別れを告げたと思う。
ヤマトの人々と離れた空域で見守ったのも、艦外へわざわざ出て見送ったのも、誰にも涙を見せたくなかったからかもしれない…、などと勝手に想像する私なのであった。

 

さて総統たちはこの後、どうなっていくのか?
ガルマンガミラスがあのように壊滅状態であるが、本星以外にも付き従える星はありそうなので、又それらを基に総統のバイタリティー溢れる活躍で建て直しを計るのであろうか。
壊滅しようが失おうが、何度でも挑戦して、何度でもやり直す、そんな不死鳥のようなとびきりタフな人が総統である。
因果応報もそろそろプラマイゼロ位と思うので、又、持ち前のガッツでガルマンガミラスの再興に尽力してもらいたい。

 

完結編で総統がお亡くなりにならなかったことが私にとっては何よりの喜びである。
良かった…、いつも誰か主要な人が亡くなるのが恒例行事のようなヤマトなのでハラハラものである。(苦笑)
デスラー総統よ、永遠なれ!

 

こうして私の総統への思いは復活編へと続くのであった(笑)。
(この感想だけ、他に比べて長っ!最近の総統がらみの文章は感想というより、もう公開ラブレターになってないか?・笑)

 

 

26.デスラー総統と「思い姫」「忍ぶ恋」のこと(「新たなる旅立ち」考察)

 

私は、昨年(2013年)年末、サンケイ新聞の記事の中で、「鈍機翁のため息」というドンキホーテの物語に関する考察の連載コラムを読んだ。

西欧の騎士道では「思い姫」というのが、遍歴の騎士には欠かせぬものであるということと、この「思い姫」の価値観と日本の武士道の「葉隠」の中の「忍ぶ恋」が相通じるものであるということが書かれていた。

 

以下は、ウィキペディアを参照による。

「思い姫」というのは「騎士は身分の高い女性(既婚の場合も多い)を崇拝し、奉仕することを誇りとした。」この女性のことが「思い姫」らしい。

その愛は「ミンネ」、「宮廷の愛」と呼ばれるもので、「その愛が報われることはなく、それでも一途にひたむきに、騎士は貴婦人を愛しぬいた。」

「恋愛は自らに試練を課し、精神を高めていく行為、恋愛の美徳は愛する人の為に、命を投げ出す純粋さ」であるというものなのだ。

 

一方、「葉隠」は佐賀鍋島藩の武士道の書であり、ここに「恋の至極は忍恋(しのぶこい)と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。」とある。

この「葉隠」を解いた三島由紀夫の「葉隠入門」ではこう解説される。

「「葉隠」の恋愛は忍恋の一語に尽き、打ち明けた恋はすでに恋のたけが低く、もし、ほんとうの恋であるならば一生打ち明けない恋がもっともたけの高い恋である」と「忍ぶ恋こそ至極なり」ということらしいのだ。

たけが高いとは品位が高いとか、崇高で壮大な美しさがあるというような意味で捉えるべきかな?

 

私は正直、これらのことを全く知らなかったので(無知な奴です・苦笑)、新聞のコラムを読んだ時、ちょっと衝撃を受けた。

私は昭和36年生まれで、勿論、戦後民主主義の世の中で育った。

恋愛観もアメリカから入って来た自由恋愛が普通という状況で育った。

誰かを好きになったなら、素直に気持ちを打ち明ければよいし、むしろその方が愛し愛されで素晴らしいことであると思って生きてきた。

勿論、精神と肉体は切っても切れぬものであり、愛あれば肉体的に結ばれることもごく自然であるとも認識していたのである。

 

であるので、「ヤマト、新たなる旅立ち」で総統がスターシャに対して、あんなにも深く愛していたのに、何故それまで彼女に対して意思表示をしていなかったのか?

それがあの作品で、あの場面で、唐突に愛しているというふうなことを言いだしたことが少し不思議な気もしなくはなかった。

 

しかし、「思い姫」と「忍ぶ恋」のことを知って総統をみてみると、総統は自分の気持ちに無自覚だったというより、もしやスターシャを「思い姫」のように愛していたのかもしれない?と思ったのだった。

もしそうだとしたら、スターシャが古代守の妻であったとしても、総統はスターシャを自分のものにするといった俗っぽい気持ちとは全く別にスターシャを崇拝するように愛し抜いていたということだろう。

きっと総統はこの意味では騎士であり、そして武士でもあった。(やはり侍か!・笑)

 

総統の恋が「忍ぶ恋」であったなら、総統はスターシャに一切愛してると言わずに心に秘めたまま深く思いつづけようとしていたのかもしれない。

古代が波動砲を撃つのを躊躇ったがゆえに、一生言うことのなかった「愛してる」の言葉を口にしたのだ。

総統はスターシャを助け、守る為には、躊躇わず命を投げ出すことを望んだであろう。

 

総統が「新たなる…」で見せたスターシャへの愛がこのような「思い姫」「忍恋」かどうかは私には断言できない。

しかし、この考え方なら総統の行動にもいろいろ納得がいくかもしれない。

 

ただ、私は、これを書きながらも今でも、総統はやはりあまり自分の気持ちに気が付いていなかったんじゃないのか?という気もしている。

総統は、ずっと権力の座にあって、ガミラスの地球移住のことや、その後のもっと大きな野望に向かって夢中になっていた。

戦いにあけくれ、武力による破壊に快感さえ覚え、勝利と栄光に酔いしれるがあまり、自分の中にある愛を省みる暇などないまま日々過ごしていたのではないか。

それが、あのような状況で、初めて自分の気持ちと向かい合う機会が来て、思ってもみなかった自分の中の深い愛に自らが一番驚いたのではないのだろうか。

 

私たちが現代思っているような普通の愛であったとしても、本当に愛し抜いていたなら、愛の究極の姿として忍ぶ恋に限りなく近づくような気もする。

そこには純粋で無垢な愛だけがあって、その愛の姿ははもう崇高なるものであろう。

おそらくスターシャに対するあの時の総統の愛はそのような愛であったと思われる。

 

他の世事には長けていて、権謀術数もお手のもの、権力闘争も楽々勝ち抜いてきたんじゃないかという手腕の持ち主のように思うが、う…ん、総統、愛については全然手馴れてないんだよね。

そんなアンバランスなところが、魅力的というか…、純粋な総統の愛を思うと、私はいつも胸が熱くなるのだった。

(ただ、ちょっと変な人かも…という気も同時に抱き続けているという…、ほんとにファンか?という面もある私・笑)

 

 

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