67.ジレルの人たちのこと

 

ジレルの人たちことは、結構びっくりした。

「2199」ではセレステラたちの言葉や周りの人の噂で、ジレル人はもう滅んだ、セレステラとミケーネだけが生き残り云々ということだった。

 

その為私は「方舟」の途中までは、てっきりレーレライが一人だけあの星にいるのかと思っていた。

それがどうだろう…、最後に姿を現したジレル人集団!えっ?!こんなにたくさんいたの?!!と驚かされた。

男女含めて結構残っていたんだ…(笑)。

「2199」で亡くなったセレステラも、このことを知っていたら良かったのにと、ふと思ったのだった。

こんなに同胞が存在していたら、ガミラスを出奔後も、あんな思い詰めずにいられただろうし、彼女の選択枝も増えたかもしれないのに…。

 

物語の終盤にはジレルの人たちは起動した宇宙船シャンブロウで旅立っていったようなのだが、これってこのままもう出てこないのだろうか?

 

私がそう思うのは、次作のガトランティス編のことに思いを馳せているからなのだが。

旧「さらば…」や「ヤマト2」で出てきたスゴイ女子「テレサ」のことを考えるにつけ、あの人、出てくるのだろうか?と疑問に思っているのだ。

 

旧の映画版とテレビ版、どちらの作品のテレサも破格の最強兵器みたいな存在だったように思う。

テレサ…、観る度にスゴイ!スゴ過ぎる!と思い、彼女について語ろうとすると、押さえきれずに激しくツッコミも入れてしまう私なのだが、キャラとしては結構好きなのだった(笑)。

しかし、やはりあんな超人が出たら、それまでの地道な話作りなんて一瞬にして吹っ飛んでしまうような展開しかありえないような気がするのだ…。

だとしたら、もっと普通人ぽい設定のテレサが出てくるのだろうか?

 

それとも、この旅立っていったジレルの人たちが、代わりにテレサのポジションを担うとか?

 

「方舟」でとても強い印象を残してくれたレーレライなので、この作品だけのキャラにするのは勿体無いなぁと私は思うのですよ。

それにこの人たちとあの遺跡の宇宙船がセットだと、結構「いい仕事」しそうな気がする(笑)。

 

もしガトランティス編で使われなくても、きっと今後いずれかの作品で是非使おうと製作側は思っていると思う!(笑)

 

 

 

68.静謐の星「シャンブロウ」のこと

 

ガミラスのバーガーたちが最初にこの星に囚われ、続いて、ガトランティスのダガームとの戦闘を避けようとしたヤマトが迷い込んで囚われた。

物語の半分近くはこの星の閉ざされた空間(皆は大和ホテルと認識させられている)で繰り広げられる。

 

薄鈍色の異空間にある星シャンブロウ、この星をガトランティスは宝の星(静謐の星)として欲していたようである。

(本当は星ではなくて古代アケーリアス文明の遺跡であり、巨大な播種船であったのだが以下、星と書きます)

 

この星の様子(設定)を見て、私は旧作のあれやこれやの星を思い出したのだ。

 

ガトランティスが星を手に入れようと探していたことは、「ヤマトⅢ」でガルマンガミラス、ボラー連邦共がその強大な科学力を得る為にシャルバート星の場所を探していたという設定に似ている。

探しても探しても普通では決して見つけられないようなところも似ている。

シャルバート星も次元の向こうに隠れていたのだった。

 

このシャンブロウ星は星に進入した者たちに彼らの記憶にあるものを再現して見せる(ジレルの巫女が遺跡を使って見せていたようであるが)。

この訪問者の見たいものを再現して見せる不思議な星という点は同じく「ヤマトⅢ」のファントム星の設定によく似ている。

 

連想は「Ⅲ」だけではなく、旧作シリーズの他の作品に出てくる星にも及んだ。

 

星の封印が解け実体が露わになった時、巨大な枠組みだけのようなスケスケの見た目が現れた時には「ヤマトよ永遠に」のデザリアム星の姿を思い出した。

 

又、古代アケーリアス文明の播種船として宇宙を回遊するというのは「完結篇」の水の惑星アクエリアス(アクエリアスの水には生命の芽が含まれており、それが銀河系の多くの星々の生命の起源となっている)を思い起こさせる部分もある。

 

旧作のいろんな作品の要素が入れられている…それって旧作に対するオマージュの意味もあるだろうが…。

「いや?!これは、もしや…!?」と、やっと「2199」の世界像について見誤っていたことに気が付いたのだった。

目から鱗が落ちるとはこういうことでしょう。

 

 

 

69.「宇宙戦艦ヤマト2199」の世界について

 

「2199」の感想ページの1項目目に「2199」の設定が旧作ヤマト1作目に「ヤマトⅢ」が所々覆い被さっているのでは?と書いた私だが、この作品を観てそれは間違いだったのではと思った。

旧1作目に「Ⅲ」が覆い被さっているのではなく、「2199」の世界設定は旧シリーズ全作品の要素を踏まえた上で、新たに構築し直されていたのではないのだろうか。

 

世界設定を変えたのは旧1作目の設定が現代からすれば不自然な部分があるからというだけではなかっただろう。

おそらく、旧作とは描きたい主題が変わっているからだと思う。

そして、その主題については、既に作られた「2199」本編とこの「星を巡る方舟」だけでなく、今後作る作品でも通し繰り返し描くことで説得力をもたせようとしているのだろう。

 

「2199」は旧1作目のリメイクではなく、旧ヤマトシリーズ全体を構築しなおした「新しい宇宙戦艦ヤマトの物語」の始まりの部分だったのではないのか?

 

旧1作目は、あの一本で完全に完結した物語だったと私は思っている。

映画「さらば…」でさえ、蛇足だったかも…という気もしている。

続編、続編と作り続けたことでどんどん迷走していった。

 

でも、ファンというものは、完結した作品でそれに十分満足したはずなのに、又、それの続編も観てみたいという非常に欲張りで我侭なものなのだ(私もそうですが…苦笑)。

勿論、製作サイドだって続編を作り続けられればいろいろいいこともあるでしょう。

両者の利害が一致するのなら、最初から続編と繋ぐことを想定の上で物語世界を設定して始めたら良いではないか。

 

片田舎に住むただの「おばちゃん」である私の勝手な推察であるが…、そういう考えの上で「2199」という「新しい宇宙戦艦ヤマトの物語」は始まっているのではないのだろうか。

 

これらのことから考えるに、この後、次作で対ガトランティス戦闘編は描かれるだろうが(きっとこれもいろいろ変わっているでしょう)、その後の作品があるとしても、それはもう旧シリーズを踏襲することはないのだろう。

そのことも踏まえた上で旧シリーズへのオマージュとしていろんなモチーフを散りばめて設定しているのではないだろうか。

これは制作サイドの旧作への敬意であると思う。

 

今回の番外編の「方舟」の出来を観ると、旧作リメイクではなく、むしろストーリーがオリジナルなものの方が面白く出来上がるのではないかと思う。

だとしたら、旧作にあまりひっぱられずに新たなストーリーの企画でどんどんやっていってもらったらいいのではないか。

私はその方向で進んでいくことに賛同する。

 

何作まで製作できるのかは知らないが(金銭面などいろいろあるでしょうから)、「2199」を正当に評価するのは、この後続く部分を観続けてからでなければならないのかもしれない。

 

とは、言っても、やはり今昨「星を巡る方舟」を観るまでは、このことに気が付かなかったのだ。

 

言い訳になるが、昔を知っている者には分りづらかったですよ…、ほんと、この「星を巡る方舟」を観るまでは!。

旧作が頭に染みついている世代としては、設定リセットは容易ではないのだ。

「2199」については、あの時点でああいう風に感じていたのは違いないので、まあ、以前に書いた感想や評価はあれでいいや(笑)。

しかし、今後の作品については新しい気持ちで接しますので、過去の無礼はご容赦ください。

 

 

 

70.「星巡る方舟」の主題のこと

 

私は常々、外界と遮断された世界で繰り広げられるドラマには格別な面白さがあると思っている。

そういうミステリーの作品も大好きである。

私が「方舟」を高評価している理由も、あの大和ホテルで繰り広げられたドラマ部分がそういった私の好みに合致したせいかもしれない。

あそこだけ観ていると、まるで孤島ミステリーのような趣ではないですか?(笑)

 

今回の「星を巡る方舟」において、シャンブロウの大和ホテルの中では、ガミラスの軍人もヤマトの乗員も、それぞれの立場や地位は何の意味も無くなった。

あそこから出られるかどうかも分らない状況だったから、人として素の姿で向かい合い共同生活をおくることとなっていた。

各人は外部から切り離されて、社会的地位等による「システム」の底上げがなくなった状態だったのだ。

そんな中で個々の人格同士の交わりによって相互理解が生まれていく様子が描かれていた。

その過程の描写に説得力があったので、その後の戦闘シーンでの共闘にも不自然さは感じられず十分納得ができた。

 

この作品の主題は「異民族間の相互理解」だというのを監督が語っていたのをネットで読んだ。

作品を観て私にもそれはストレートに感じられた。

 

「2199」全体の主題もこの「方舟」と同じものだと私は思っている。

メルダや、ノランや、ユリーシャのエピソードなど、相互理解は可能だということが「2199」の作中でも繰り返し描かれていた。

しかし「2199」を観た当時は、個人単位のそれは成り立っても、それイコール地球とガミラスに当てはめるのは無理がある気がしていた。

実際、あんな取って付けたような和平で納得しろというのか?と思ってもいた。

 

が、前述したように、「2199」の物語は続いているのだ。

あの「2199」の時点で終わりというつもりで作っていたのではなかったのだろう。

今後、あの後がどうなっていくかが描かれるのであろう。

そして個人単位であっても相互理解の事例の積み重ねが大きな波になって、両星にとって決して取って付けたような和平ではなくなっていくのだということを納得させてくれる展開が描かれるのかもしれない。

思えば国という大きな単位もとどのつまりは一個人の集まりなんだから、個人単位の意識変革を軽んじることなかれということだろう。

 

前項で、旧作とは主題が違うと書いたが、よく考えると旧作だって「異民族間の相互理解」に通じることを言っていた。

ガミラスを破壊しつくした後、古代が「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった。」と慟哭していたのだ。

あの時も、戦いではなく互いを理解していれば不毛な戦いは避けられたはず…という深い後悔が描かれていた。

しかし、私は、旧作ではやはりあの戦いなしでは、そういう境地に至ることはありえなかったと思う。

そのことが、たいそう苦くて重すぎて、観ているこちら側もやりきれなくて…、だからこそずっと忘れられない作品になっているのだと思う。

 

とはいえ、やはり旧1作目の一番のメッセージは愛する者や対象を守るためには、人は信念をもってするべきことをしなければならない!ということの方だったと思う。(するべきことって戦うことだったけど…)

その上で同時に相互理解に通じる愛をもつことが必要だというメッセージだった。

 

その後、ヤマトの続編はいくつも続くのだが、いつも「愛」が大切!というふうなことを作中で繰り返し言っていた。

ただその愛は敵ではなく自分たちの大切な人を守ることという意味が大きかったかも…。

その内、「ヤマトⅢ」などになると、しきりと戦わずに云々ということが出てきたりもするようになっていくのだ。

 

私はそういったセリフが飛び交う場面を観ながら、なにやら居心地の悪さを感じていた。

心のどこかで、空々しいものさえ感じていたのだった。

だって、どの作品でも敵対する相手方は、全然そんなことを受け入れてくれそうにない輩に見えたからだ。

 

ただし、これはヤマトに限った話ではないのだ…。

当時の他のアニメも、敵側は話せば分るなんて全く通用しない相互理解は到底無理な相手に描かれていたと思う。

 

だからあの頃の多くの作品では敵とはやはり戦わなければならなかった。

戦って戦って、戦い終わった後でなければ、「互いに理解できれば戦いは避けられたかもしれないけど…」という境地には絶対に至れなかった。

そんな物語展開に作られていたのだ。

 

最近の戦闘ものアニメを観ていると「2199」と同じように、戦いではない方法を探ることを第一義的に!、そして必ず相手とは分かり合えるはずだ!が主題となっているものがとても多いように思う。

登場人物たちは、最後までくどい程、俺たちは分かり合えるはずだ!戦いを止めて話し合おう!と言う。

どこかの時点で時代は変わったのだと思う(徐々に変わっていたったのか…?)。

正しい道理で、立派だし、推奨すべきものだと私も思うのだが、反面、心のどこかできれいごと過ぎやしないか?という気もよぎる。

そんなで、解決したら世の紛争なんてとっくの昔になくなってるわ!なんて身もふたも無いことを考えたりもする。(苦笑)

 

しかし、この主題こそ今の時代に描くべき重要な主題なのだというのは私にも分るし、決して間違ってはいないとも思う。

だからこそ、せっかく描くのだから説得力を持たない、ただ「甘い」だけの作品になることはくれぐれもないよう、作り手の方々にがんばっていただきたいと思っているのだった。

 

このことを考えていて、ふと、「2199」でヤマトに白兵戦をしかけてきたアベルト・デスラー総統が森雪の糾弾に対して返したセリフを思い出した。

ちなみに森雪の糾弾のセリフは「地球もガミラスも戦う必要なんてなかったのに。お互いに相手を思い合って、愛し合うことだって出来たはずなのに」である。

アベルトは半ば言い訳のように「戦いは必要だった。星々を従え、この宇宙を救済に導くために。そして、ただ一人、私の愛する人のために・・・」と言ったのだ。

「星を従え、この宇宙を救済に導くために」を「地球を守り、平和をとりもどすために」と置き換えればそのままかつての作品群たちの言い分のようではないか?

 

なんだか、これって大変意味深なセリフだったのでは?と今になって思っている。

 

旧作を製作していた人たちは(いや、かつての時代の人たちの多くも)、何らかの大きな代償なしでの最初からの相互理解は無理と心のどこかで思っていたのではないだろうか。

そしてこの「2199」に携わる人たちは現在の主流「相互理解」によって戦いは避けられる!という信念(希望)から出発しているのだろう。(真っ当なことであると私だって思いますよ)

 

いや…?、長々と書いていて、ちょっと自信がなくなってきたのだが…、もしかしたらむしろ反対に、現代の作品の多くが相互理解を強く訴え続けるのは、それが非常に難しいことであることを実感している故かもしれない気もする…。

まあ、私も相互理解ってとても大切なことだけど、なかなか難物だと思いますもん。

 

丁寧に過程を踏んで物語が構築されれば、きっと新しい「ヤマトの物語」はいい作品になると思う。

そして、思えば、旧作をそのままリメイクするのだったらそれこそ作る意味は無かったのだろう。

「2199」と題名の後につけたのは旧作とは違う新たなる作品として世に問うという意図だったのだろう。(勝手に私が思ってるだけかも・苦笑)

 

次作「ガトランティス」編がどんな展開になるのか、とても興味がある。

旧作のガトランティスは相互理解など絶対無理な存在に描かれていた。

今度はそうではないのだろうか…?

それでは、ガトランティスとも相互理解とかしちゃうのかな?

でもそんなのばかりじゃ作品観た後のカタルシスとかなくなるかもしれないし…(まあ、それはいいか…苦笑)。

それに、そんな「分かり合えた!」万々歳みたいな展開がいつもだと、マンネリじゃない?(こればっかりという気もするけど)

 

勝手にいろいろ心配もしてますが、よく出来ていた「方舟」のような感じで次作もお願いしたいものです。

 

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