43.「ヤマト2」以下続くシリーズについて私が思うこと

 

では、その上で私が「ヤマト2」以下続くシリーズのことについて、どう思っているかということを述べる。

私の個人的な見解であるが、シリーズを通して観て思ったのは、やはり一作目を越えるような作品は後のシリーズ作品には無かった。

しかし、それは、普通一作目が好評で続編を作り続ける作品にとってはよくある話で、ヤマトが特別ってことではないだろう。

そしてヤマトの場合、一作目の話は完全にあれで完結したものだったし、その完成度も高かったから、その後のヤマトを描く続編シリーズの評価を一作目と比べるのは酷かもしれない。

内容も敵側の移住目的の侵略攻撃によって地球が滅亡危機に瀕するという、とりわけ重いものだった。

これを観た後の続編となると、同等か、もっと大変な危機に直面することを視聴者側も期待する。

 

その結果、シリーズ化したことで、外からの侵略等で何度も滅亡危機に見舞われる地球を描かなければならなかった。

さすがにそれは回を重ねるにつれ不自然でしょう感が付きまとうのは当たり前だ。

不自然って、目を瞑って我慢していても頭の奥で引っかかりつづけるものだ。

結局人はそんな話にノリきれなくなるし、どうしたって白けることになる。

続編が出来栄えの面で苦戦したのは当然といえば当然だったのかもしれない。

 

しかし、私はそれでもシリーズを作り続けたことを否定するわけではない。

良かったことのひとつは作り続けたことで、今もヤマトを懐かしむ人々の層を厚くしたこと、そういった人を育くむのにはきっと役立った思う。

(勿論、作り続けたことで失望した人だっていたとは思うが…苦笑)

 

そして、私が今回、昔を懐かしんでネットで旧作を調べた時、一作目と「さらば」だけだったら、きっとこのように再び旧作品を観て楽しみ、又、ファンとして今あるということもなかったように思う。

一度は完全に縁を切った生活をしていた私が、いい歳になって又、戻ってきた時、観たことがなかったシリーズ作品の存在を知ったのだ。

それを今頃初見で観て、結果、失望したかというと決してそうではなかった。

大手を挙げて大満足とは言わないが、それなりに今でも十分に楽しかったと言おう。

 

きっとこれはシリーズの形で残っていたからで、それを追うことで楽しみも増幅されたはずである。

作品中にはあまり気に入らないのもあれば、自分好みのものもあったが、それらを含めてシリーズとして観終わった後、大変愛着をもった。

シリーズとはそういうものなのだ、ある分量があれば、互いを補いあって存在感が増す。

単品で輝き栄光と共に残ることもそれはそれで素晴らしいのだが、シリーズ作品としてまとまった形で後世に伝わってくれた方が作品の命は永らえるかもしれない。

私は少しでも永らえてもらえる可能性の多いシリーズの形であってくれて良かったと思っている。

 

改めて言う、シリーズ作品を観て前よりもっとヤマトを好きになった。

そして、あの妙に中途半端に悲しさで途切れた高校時代を克服できたような気持ちにさえなっていると。

 

作品の質的に途中で止めた方が良かった、金儲け主義に流れた等の批判もあった反面教師的な面を持つシリーズだったかもしれないが…。

しかし、何ごとも先駆者は常に捨て石なのだ。

おそらくこれにまつわる多くの光と影の面を見て踏み越える形で次のアニメのムーブメントは起こっていったはずだ。

功罪全てを含めても、なおシリーズで残っていてくれて良かったと私は思っている。

 

 

44.私は何故ヤマト好きと表明するのが恥ずかしかったのか

 

高校生のあの頃、ヤマトと別離することなくシリーズの他の作品を見ていたらどうだったのだろう?

今になって、たまに考えるのだが、何故かそんなことって絶対ありえなかったんじゃないかという気がする。

 

じゃあ、ヤマトを観ずに私は何を観ていたのだろう?

あの後「ガンダム」一作目を観た。(映画版も夢中になったっけ…)

でもこちらもあんなに熱狂したのに、一作目以降は観てないなぁ。

私は一作目以降を受け付けたくないタイプの人間か?(笑)

どうでもいいが、NHK人形劇「三国志」にどっぷりはまってた時代もあったなぁ…、変な奴です(笑)。

 

他のアニメをちゃんと観ていたことろをみると、やはり私が意図的に観なかった疑惑も起こってくる。

先に書いたように「さらば…」ショックで決別というのも大きかったが、それだけではないようにも思う。

 

今観ても思うが、当時も確かうっすら思っていたことは「ヤマト」はどこかアナクロというか浪花節調な感じがするということだ。

高校生から大学生の世代の私にとってはおしゃれじゃないと映ったのかもしれない。

おしゃれってなんだ?カッコいいってなんだ?

あまり深くは考えずに感覚的に小洒落たものが好きになっていったのかもしれない。

一作目のヤマトより、アナクロで浪花節調な雰囲気は「さらば」以降の方がだんだん強くなっていっているような気もする。

 

ガンダムとヤマトを比べて思い浮かべた時、ヤマトの世界って家長制度の匂いがするように思う。

一作目のヤマトでは勿論沖田艦長が父、古代は息子の立場だ、もしかしたら、真田さんは兄だったかもしれない。

「さらば…」でも古代がどうにもこうにもならなくなった時に、死んだ沖田(父役)の助言が彼を導いた形だったのだ。

「2」では父の役割りの人物がいないので、古代はなんだか頼りなげに私には見えた。

そして「Ⅲ」では、きっと父役はデスラー総統だったのではないかと思う。

「Ⅲ」の総統は何故か古代がふっかけるけんか腰の態度にも受け止めるように対応していたのだ。

「完結編」は勿論、戻ってきた父親、沖田の存在があった。

「完結編」では古代はヤマトと共に散っていく沖田を見送りながら「お父さん」と心情を吐露していた。

対して、ガンダムのアムロには実父はいたが、家長として頼るべき父では無く、アムロは少年にして既に孤独な存在であった。

 

きっとあの頃、そんなヤマトの雰囲気が前時代的なものを感じさせて、今風じゃないなぁ…カッコ悪いかも、ちょっと恥ずかしいかも…などと浮ついたことを思っていたのかもしれない。

今となっては、家長制度もどっかへ消えてしまったし、それが無い家族の形も全然カッコいいものでもないことも分かったし…もうどちらが新しい古いという感じはしなくなってしまったが…。(苦笑)

 

とはいえ、実は今も「ヤマト」が好き!と言うのは、ちょっと恥ずかしい気持ちはある。

前にも書いたが、こんなふうにホームページではいろいろ力説しているが、現実でカミングアウトできるかというと、到底出来そうにない。

はっきり言ってリアルではちょっとどころではなく、ものすごく恥ずかしい。

けれどこの恥ずかしさって、実は作品に対してというより、自分の本当の心を人に晒すことを恥ずかしがっているのだと気づいた。

 

最近、懐かしの名曲演歌云々…というような懐メロ歌番組をTVで観ていた私は、そこに佐々木功さんが出演されていて「ヤマト」を歌われているのを家族とともに観ることになった。

観初めてすぐに、もの凄く照れくさくなった。

うわーっ!もうダメ!!とトイレに行った(あの、漏れそうになったんじゃなくて、恥ずかしさから逃れるためですよ!・笑)

もっと前、今のようにヤマト熱が起こってない時はそんなことはなかったのに!(笑)。

 

本当に好きなものについては他人に知られたくないのかもしれない。

好きすぎて自分が客観的に対応できないことが恐ろしいからか…、不用意に触れられたくない心の柔らかい部分を他人から守りたいのかもしれない。

急所か?!(笑)

それについて相手と語る時、ちょっとしたことですぐ傷つくかもしれないので、慎重に相手を見定めているのだと思う。

そして屈託無く話せるような相手がいそうにない場合、人は自分の中に熱い思いを隠して悶々と過ごす方を選ぶのだ。

決して周りに知られぬようにそっとこっそり隠す、でもこっそり隠し続けていると、往々にして思いは時間がたつにつれて鎮火して無くなってしまうのだが…。

 

きっと、「さらば」を観た頃の私って本気でとても「ヤマト」が好きだったのかもしれないなぁと思う。

白け世代の代表みたいな高校生だったが、ヤマトに関してはウブな奴だったのだ(笑)。

あまりに好きだったので極端な反応をした。(あの映画で号泣、決別とは…、激情型人間か?・笑)

そして、当時の時代風潮的にも、自分の周りの環境的にも「ヤマト」好きを表明することを恥ずかしく思い、隠しているうちに完全に離れてしまったのだろう。

結果、決別して長年忘れて暮らしていくことになっていたのだと思う。

  

 

45.私がヤマトに戻ったのはネットがあったからだ

 

今回、このホームページを作るまでにヤマト熱が増幅したのはネットの力が大いに影響していると思う。

おそらくネットを通じて情報を得ることがなかったら、私はもうヤマトには一生戻ることはなかったと思う。

TV放映の「ヤマト2199」は観たとは思うが、自力で旧作シリーズを観ようとは思わなかっただろう。

 

旧作に戻ろうと思ったのは、勿論、新作「2199」に満足がいかなかった部分があったからだが、ネットで今も旧シリーズを愛し続けている人々が少なからずいることを目の当たりにしたからだ。

現実社会では、特に私のように田舎に暮らしている者にとって、アニメの同好の士に出会う機会など皆無であろう。(若者ならまだしも、いい歳いってるし、おばちゃんだし…・苦笑)

 

例えば、心躍るような作品に出会ったとして、それを放映中は楽しんでいても、終わってしまえば気持ちも時がたつに連れて終息していく。

今は録画することも出来るし、DVDを手に入れることも出来るし、自分の内で保ち続けるのは昔よりはずっとたやすくはなってはいるが、一人で気持ちを延々と持続するのはそうそう出来ることではない。

たとえ交流はなくとも誰か同じように同好している他者もいるというという連帯感が持続の支えになることは多い。

ネットは、ちょうどその連帯感を支える誰かの部分を補ってくれるのだ。

 

私がネットを検索した時に、新旧はあったが、地道にヤマトファンを続けられている方々のサイトを何件も目にした。

私が見た感じでは古い方で1998年あたりからだろうか?

Windows98ぐらいからPCが一般に急速に広まっていったような記憶もあるし…。

もう更新はされていない様子のサイトもあれば、比較的新しそうな所もあった。

さまざまであるが、私が覗いたサイト以外にももっとあるだろう。

ネットの上には今もずっとヤマトの世界も続いていたのだ。

 

コンテンツの放映が祭りのように一時的なものだとして、ネットが普及していないそれまでの時代では、放映が終わると私たちも現実の祭りの後に残された人と同じように祭りの楽しさを心に残しながらも、それを片づけ、時間と共に日常生活に戻っていった。

(ファンクラブの活動などもあったことはあっただろうが…)

しかし、ネットの世界は祭りがずっと続いているような場所だ。

そこは一時的な祭りじゃなくて、まるでテーマパーク状態だ。

どこから、いつから入場してもいい、敷居も低く、ちょっと覗くだけもOKだ。

そして居たければいつまでも居られるような終わらない祭りの世界だ。

おそらくファンの人のサイトの存在は公式を越えて作品の存在を地道にずっと支え続けているかもしれないと思った。

 

勿論、サイトを作られた方々は専門チャンネルで作品放映を何年かぶりで目にした、新作映画版上映がきっかけになったなどの、何らかのきっかけがあって再びファン熱が再燃したという方も多いようである。

かくゆう私もそうですが…。

でも自分でサイトを作ってそれがネットに存在して、検索した人がそれに触れて、内容に共感して元の作品を観るというふうな循環が起こるとしたら、ネットのなかった時代とは明らかに違う時代に入ってきているように思う。

 

民放TVで作品を観て楽しむ、それが私の昔から続くコンテンツとの付き合い方だ。

しかし、今の子供世代って私の子供時代のように観てるかTV?

きっと世代によってコンテンツに対する捉え方って随分ちがったものになっていくような予感がする。

 

今の私はネットがあったからこうして又、楽しい時間を持てたことに大変感謝している。

と同時に古い世代の人間の杞憂かもしれないが、ぼんやりと、もう少ししたら世の移り変わりについていけなくなるかも…と少し弱気なことも感じている(笑)。

まあ、ついていけなくなったらなったで、仕方ないと諦めると思うけど…(苦笑)。

 

名作「攻殻機動隊」の草薙素子の名言「ネットは広大だわ」の言葉の重みをしみじみ思うのだった。(あっ、ちゃんとした元の意味の方ですよ。ネッ広ではなく!…ネッ広の意味検索してビックリした~・笑)

 

 

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